ここのブログ名 「夏目芳雄」は、僕の母方の祖母の旧姓夏目と、その配偶者、祖父のファーストネーム芳雄を組み合わせたものだ。
祖母は大阪市の西区桜島(現在の此花区桜島)で生まれ育った。
祖父は四国の香川県の山間の村で生まれ育ち、その後大阪に出て昭和初期に旧逓信省電報電話局で英文電報の文面について文法の誤りをただす仕事をしていた。
祖母の母方が祖父の親類だったことで二人は一緒になった(らしい)。
大阪の九条で所帯を持った。
昭和10年(1935年)に僕の母が生まれ、母も九条で育った。
戦争で昭和20年(1945年)に一家で香川県の祖父の実家近くに疎開するまで、彼らはずっと九条で過ごした。
僕は香川県の瀬戸内海に面した小さな町で昭和40年(1965年)に生まれ、そこで育った。
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1976年の終わりか、それとも1977年の初頭(僕が小学6年生の時)で中学に上がる直前ぐらいのことだったと思う。
母と祖父たちが腕時計を買ってくれることになった。
候補は2つ。2つとも結構立派なものだった。
ある日、僕が小学校に行っている間、たまたま四国に遊びに来ていた大阪の(祖母の兄の孫だったと思う、夏目姓の親せきの)お兄ちゃんに母が聞いたらしい。
どっちがいいと思うか と。
僕は当時まだ夏目のお兄ちゃんに会ったことがなかった。
話に上る程度で想像だけの人。彼はその時高校生になるかならないかぐらいだったかもしれない。
「僕やったらこっちがええな」、と夏目のお兄ちゃんが言ってくれたのは、
当時はデザインが宇宙的というかメタリックで青の色がきれいなセイコーのクォーツ時計だった。
そう言ってすぐに、僕が帰宅する前に、
夏目のお兄ちゃんは大阪(のたぶん阿倍野か天王寺あたり)に帰っていったらしい。
もう一つの方は僕自身もよく覚えていない。
あとで自分が比較して見ても明らかにダサい(というか極めて普通の)時計だったから。
僕は夏目のお兄ちゃんと同じ選択をした。
自分も明らかにそれがいいと思ったから。
夏目のお兄ちゃんの意見は、僕の好みや結論とも合っていて、
凄く嬉しく思ったのを覚えている。
母から伝え聞いたその時の彼の表現というか言い方も僕の感性と合っていた。
彼は決して「こっちにしろ」みたいな言い方はせず、
僕なら・・・・と言ったのだった。
宇宙飛行士がするようなデザインのそのセイコーの腕時計を買ってもらった。
本格的に使い始めたのは地元の高校生になってからだ。
それ以来、ずっと使っていた。
高校を卒業して東京の下町で浪人生活を送っていた時も。
大学生になってからも、無職の時も、就職してからも。
何十年も。
就職して、その時の業種では映画「ザ・ファーム」のトム・クルーズのように毎日タイムレポートを出さねばならず、その腕時計を見ながらタイムレポートを書いた。
マレーシア駐在時も。
帰国してからも。
つい最近、僕が50代の半ばになってからも。
やがて、2,3年前だったか、何度目かの修理の時、もうメーカーも部品を製造していなくて修理はできないのです、と言われた。
つまり、もう動かない。
ショックだった。
決してローレックスやジャガールクルトみたいな高価なブランドものではないけれど、40年以上も共に過ごしてきた腕時計だったから。
夏目のお兄ちゃんとは、僕が高校を卒業してこれから東京で浪人生になるという18歳の頃、
香川県で一度だけ会ったことがある。
祖母が(自分の出自である夏目びいきのためかこういうときだけ)地元の海鮮料理屋に皆を連れて行ってくれた。
僕も一緒に行った。
夏目のお兄ちゃんは美人の彼女さんを連れていた。
黒くて長い髪で、スラっとした体形の、かなりの美人だった。
派手ではなく、清楚で優しく、頭のよさそうな女性だった。
女優さんでいうと、若い頃の檀ふみさんのイメージに近い人。
夏目のお兄ちゃんはその時、京都大学工学部の学生だった。
そろそろ卒業するぐらいの時期だったかも。
どうしてこうも僕の周りの親せきたちは高学歴でエリートが多いのだろうかねぇ。
18歳で初めて会った夏目のお兄ちゃんは180センチぐらいありそうな長身で、
けっこうイケメンで、
美人の彼女さんを連れてきていて、
しかも彼は話すときも穏やかで優しくて、
人柄がよかった。
それが僕にもよくわかった。
非の打ち所がない。
だから、嫉妬した。
僕はその料理屋でひそかに悪態をついた。
祖母にもあとで言った。
なぜエリートのお兄ちゃんを僕に会わせるのか、どこの大学にも受からなくてイライラしている僕を、劣等生の僕を、そんなに惨めにさせたいのか、と。
もともと僕と祖母はとてつもなく相性がよくない。
祖母は言い訳のように言う。
元気が出ると思うて。
嘘つけ。自分(祖母)の大阪の親せきを自慢したいだけだろ、と僕は言った(と思う)。
僕を外食に連れて行ってくれたことなんか、一度もないくせに。
家を出て行った、養子の実の父のことがあったからなのか、
祖母が、台風のようなハチャメチャな父の血を引く僕を、
あまりよく思っていなかったことだけは確かだ。
それが、少年の頃の僕にも痛いほどよく感じられた(少年だから感じられたのかもね)。
何年かして、夏目のお兄ちゃんはその女性と結婚したと聞いた。
それについては良かった。ホントにそう思った。
でも、そうならないわけがないとも思った。
とにかく、僕はこの腕時計を大切に40年以上、使った。
夏目のお兄ちゃんに、憧れながら。
18歳で初めて海鮮料理屋で会って以来、夏目のお兄ちゃんには会っていない。
僕の家族が全員亡くなった今、どこにいるのやら、聞こうにも聞く人もいない。
でも、この腕時計のきっかけをくれた夏目のお兄ちゃんには、とてもとても感謝している。
腕時計をしょっちゅう見ながら、タイムレポートを書く必要があるような職業に、就くとはね、この僕が。
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