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カテゴリ:マレーシア駐在記( 16 )

松本清張とマレーシアを結ぶ「点と線」

2009年2月7日(土) 朝。

この日の日経新聞朝刊文化欄に
松本清張の記事が載っている。

昨今の、小説復刊、映画化、ドラマ化などの再評価。

僕は1990年代後半のクアラルンプール駐在時代に、
マレーシアを理解しようとこの国に関連する書籍を何冊も読んだ。


その中に、松本清張の小説がある。

「熱い絹」。

後にも先にも、僕が読んだ清張の小説は、

この 「熱い絹」 だけ。

でも、とても面白かった。

まさに小説の舞台となったキャメロンハイランドで、

上下巻、一気に読んだ。



駐在中に読んだマレーシア関連本の中には、
尊敬する鶴見良行(哲学者・鶴見俊輔の従兄弟)の著作も何冊かある。

鶴見良行の本で最も印象的だったのは、

「マラッカ物語」。

ものすごく膨大な量の資料と現地調査のたまもの。

その本の443頁にはこう記されている――:

「(中略) 学問の細分化がもたらすこの難点を克服するには、学者にもっと広く読めと勧めても、おそらく無理だろう。 かれらは深く穴を掘るだけで精一杯だから。 とすると、土地言語(ブギ語など)に拠って学者が国際言語(英語その他)で書いた論文を読み漁り、他の土地の同種の事柄とつなぎあわせ(ブギとミンカバウ、マレーシアとフィリピン)、さらに民衆言語に翻訳し直すような、二次的報告書が必要になってくる。 松本清張、司馬遼太郎、陳舜臣氏らには、この種の仕事が見られる。」

(引用終わり)


「マラッカ物語」という驚異的な
歴史及び文化人類学的ルポルタージュ(?)の中でも、

僕にとってはこの部分が最も心に残った。

だって、鶴見良行の言うとおり、

清張の 「熱い絹」 は、
マラヤの当時の状況を、いわば民衆言語に翻訳し、二次的報告書の側面を
結果として持たせている本でもある、と感じたからだ。


そもそも当時の僕には、
異文化圏の人々(マレーシア人)とのコミュニケーションが
課題だったからでもある。


現地(マレーシア)で住んでいるときに読むと、
そんなふうに受け取ってしまうものなのかどうか、
今となってはよく分からないことだけど。

でも、そう考えた方が、ロマンチックでいいかも。


とにかく、僕にとっては、

鶴見良行を介して、
マレーシアと松本清張は交錯している。

マレーシアを介して、
鶴見良行と松本清張はリンクしている。

今回の松本清張の新聞記事を介して、
マレーシアと鶴見の本は僕の心に再びよみがえる。


清張の、日本を舞台にした 「点と線」 は
まだ読んだことがないけど、

そういうのも読んでみたくなった。

いや、待て待て。

それよりまず、またキャメロンハイランドに、
行きたい。

英国植民地時代の名残りを残す、
チューダー様式の、あのホテルに、また泊まりたい。

♪ テーマ曲 「サクラ咲く」 by 妹尾武 ♪

関連記事:

「熱い絹」
「境界線(ボーダーライン)はどこだ?」
「白川静という学者」
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by y_natsume1 | 2009-02-07 09:33 | マレーシア駐在記

お正月 ~ハリラヤプアサと中国旧正月~

(注) 1998年ごろ、マレーシア駐在当時の文章:


日本では12月を師走といい、何かと慌ただしい時期である。

そして年末年始は、サービス業など一定の業種を除いて、だいたい12月27、28日頃から正月3日ぐらいまで休暇に入る企業が多い。

言うまでもなく、12月31日が大晦日、明けて1月1日が元旦であり、暦のとおりお祝いをするのが日本の習しである。年越しそばやお雑煮の世界である。

一方、マレーシア企業では12月31日までみっちり働き、1月1日は祝日で、年明けは2日から出社するのが普通である。僕の場合もそうであった。

それでは、マレーシアの人々は年末年始をお祝いしないのか。いやいや、そんなことはない。ちゃんと別の時期にお祝いはするのである。

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by y_natsume1 | 2007-02-18 10:50 | マレーシア駐在記

マレーシア龍宮城伝説


<再エントリ記事>

(注)マレーシア駐在時の文章:

当地の商社マンなど、一部の日系人の間で話されている伝説がある。マレーシア=龍宮城説である。普段はそれほど話題にものぼらない。たいてい、帰国辞令を受けるか、退職してまでもマレーシアに留まるか、悩む駐在員が現れた時、この伝説が誰かによって語られる。

他のマレーシア企業に転職してまでも当地に留まっていたいと悩む理由は、様々である。

チャイニーズのホステスさんとねんごろになってしまった人。
日本に帰国しても自分の望む仕事やポストが与えられそうにない人。
日本に残してきた家族と折合いの悪い人。
持病があり冬のないマレーシアで生活していたい人。
理由は、様々である。

僕がこの伝説を初めて耳にしたのは、駐在中にクアンタン出張からクアラルンプールに戻ってきて、いつもの飲み仲間とホカーレストラン(中華料理の屋台)で杯を重ねていた時であった。クアンタンはマレー半島東海岸の街で、パハン州の州都である。半島東海岸ということで、話題はクアンタンからウミガメに移った。マレー半島の東海岸では、季節によるが(5月から9月にかけてがその時期らしい)、オオウミガメの産卵を見ることができるのである。ビールをかなり飲んでいるので、この話にも皆それぞれが饒舌である。ウミガメの産卵を見たことがあるか、とか、いや、俺はそんな所に行く暇も機会もない、だとか。僕は見たことがなかった。有名な産卵場所はクアンタンの北、トレンガヌ州のランタウ・アバンという所だそうである。そこである商社マンが、言った。「マレーシアって、龍宮城なんだってさあ」、と・・・・。


「日本から一定の海流に乗ってくるとね、自然と、マレー半島の東海岸とか、ボルネオ島の北やフィリピンの領有する島あたりに流れ着くらしい(注)。本当かどうか知らないけどね。

その地域はもともとオオウミガメのいるところだから、浦島太郎もマレーシアのボルネオあたりに流れ着いて、大きな亀の甲羅に乗ったんじゃないかなあ。龍宮城と言われているのはサバ州かサラワク州のどこかの町でさ。マレー人は人懐っこくて優しいから、浦島太郎も気分よく滞在できたのかもね。

だけど、東南アジアって、季節感がないでしょ。日本人にとっては、一年中、同じ気候なわけだ。もちろん、雨季と乾季の区別はあるけど、日本の四季ほどの気温の差はないからね。暑い時、寒い時の、それぞれの肌の感覚や、服装の違いなんか、マレーシアでは全く関係がないから、覚えてないんだよ。何が、いつだったか、はっきりとは。

この人が事故に遭ったのは、あの人が帰国したのは、この仕事が上手くいかなかったのは、とか。何が起こっても、みんな暑い時。一年のうちどの時期だったか、2年前だったのか、4年前なのか、はっきりとは思い出せない。日本で生活してる人達には、不思議に感じられるだろうけどね。

そうすると、マレーシアでは、いつのまにか5年経っちゃいました、なんてことになる。本人なんかは1年ぐらいの駐在に感じてたりするのにさ。体内で時間の流れを感じるスピードが違うのかなあ。

だから、浦島太郎もさ、たまたま流れ着いた先で、親切にもてなされて。旅人やお客様には、食事を出してもてなすのがマレーの習慣のひとつだしね。本人は2,3年程度だと思い込んで日本に帰ってみたら、実際の時間は20年、30年と経っていた、というね。季節の移り変わりがないから時間のカウントができなかったのかもしれない。

だから僕たちもさ、帰国すべき時にちゃんと帰国しとかないと、帰れなくなるかもよ。それから、白髪も出てくるだろうね。あなたも前に言ってたでしょ。この間帰国した、僕らも知ってる某銀行の彼。マレーシアにいる間は白髪なんて全くなかったけど、この間日本で会ってみたら、けっこう白髪が出てきてた、って。今、まだ40歳くらいだよ、彼。40歳でも白髪の多い人はいるけどね。帰国してからすぐに白髪が出るなんてさ。浦島太郎みたい。日本の仕事の方が大変で、それで白髪が出た、っていうこともあるだろうけど。マレーシアでだって、どの仕事も大変だもんなあ。」



僕の場合は、既にこの数年で白髪は、目にみえて、増えた。マレーシアに来てから白髪が増えたのだ。日本に帰国した時には、もっと白髪は増えるのだろうか。銀髪の中年男性になると女性にモテるかしらん、などと他愛もないことを考えた。ちょうどその時、「俺にはまず、髪そのものが少ないよ」、とある人がチャチャを入れた。ビールは5,6人で既に20本程度空けた。皆、酔っ払っている。

ビールを追加で頼もうとすると、屋台のおばちゃんが気を利かして持ってきてくれた。気温は高いが夜の風は涼しく、大声で語り(怒鳴り?)合っているのは、我々日本人駐在員だけであった。ここの屋台はいつも我々の憩いの場所である。

いつか日本に帰国する時の、僕にとっての「玉手箱」には、いったいどんな物が入っているだろうか。それはどこかで既に開けられているのかもしれない。

冗談ではなく、マレーシアでは日本にいる時よりも、明らかに髪や爪の伸びる速度が、速い。本当である。



(注)
1999年7月14日付の日本経済新聞にはこんな内容の記事が載っている。「10年前、鹿児島県種子島に住む少年が海に投じた瓶詰の手紙が今年4月、4千キロ以上離れたマレーシア北東部の海岸に漂着。手紙を拾った人の勤める会社からこのほど、少年に招待状が届いた。」

日系の地元新聞によると、拾い主はトレンガヌ州の会社員だそうだが、その拾い主の勤務する会社は亀の保護についての重要性を理解してもらう目的で、子供対象の亀キャンプを主催したばかりだったという。なんだか「浦島さん、浦島さん、助けた亀に連れられて、龍宮城へ行ってみれば…」の世界になってきたような記事である。

By 夏目芳雄
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by y_natsume1 | 2005-01-06 18:34 | マレーシア駐在記

ある映画プロデューサーの思い出


<再エントリ記事>

(注)マレーシア駐在時の文章:

1997年12月のある週末、一通の封書が日本から僕宛に届いた。ちょうどその日は、ある日系企業のアニュアル・ディナーに夫婦で招待されており、そろそろ準備しなければと思っていたところだった。

見ると、送り主は仲の良い女性の先輩からだった。僕の母が10月に亡くなったことで、友人、知人に喪中のハガキを出した。それについてお悔やみの返事を送っていただいたのだった。そこには彼女の父親や叔父様のことも記されていた。すでに数ヶ月又は一年ほど前に、お二人ともご病気で亡くなったそうである。ここで、仮に彼女の叔父様をY氏とでもしておこう。Y氏の遺品の日記には、親しくさせていただいていた頃の、僕のことが出てくるという。彼女からの文面には、最後の方に、「一人暮らしの叔父と親しくしてくれて、ありがとう」とあった。

1997年、僕はマレーシアにいて、そしてその年は、親族や友人など、大切な人が何人か亡くなった、辛い年だった。ディナー・パーティーに遅れまいと着替えつつ、僕は、そのY氏と過ごした当時の事を思い出していた――。

キッカケはなんでもなかった。僕は小学生の頃からとても映画が好きだった。あまりに映画のことが詳しそうな僕に、前述の手紙の主の彼女はある日、いきなり一枚の写真を、  見せた。

「ねぇ、キミは映画のこと詳しそうだけどさ、これ何の写真だかわかる?」

わかるもわからないも、僕はびっくりした。

セピア・カラーのその写真には、若き日のマーロン・ブランドが着物姿の日本人女性とおぼしき美人と二人で写っている。おそらく、1950年代に「サヨナラ」というハリウッド映画で、日本ロケに訪れた時のものだろうか。

僕がそこまでしゃべると、さすがに彼女も驚いた様子だった。

「よくわかるわねぇ。そうなのよ。マーロン・ブランドの隣の女性はね、実は私のママ。もう随分前に亡くなっちゃたけどね。モデルをやってた関係でこの映画にエキストラで出演したの」

・・・・・出演したの・・・。 エキストラで? 実は私のママ? ・・・・って、おいおい。すっげぇ美人じゃんか。しかもセピアカラーの生写真でマーロン・ブランドまで写ってるし。何なんだ、この展開は、と驚いたのはこっちの方だ。

そして彼女は、そんなに映画が好きならば、と映画の仕事に携わっていた彼女の叔父様(彼女の父親の弟にあたる)、Y氏を、僕に紹介してくれることになった。Y氏の仕事と、「サヨナラ」ロケの写真とは全く関係はないのだけどね。

Y氏は、ある有名な大手映画会社の元プロデューサーだった。紹介された時は、僕は20歳代後半の独身。彼は、既に映画会社をリタイヤされ、東京・渋谷の高層マンションの一室で、一人、悠々自適の日々を過ごしておられた。60歳ぐらいだったと思う。

そのマンションのご自宅に初めて伺ったときは、僕や、Y氏の姪にあたるその女性の他に、男女2、3名が一緒であった。他の人たちは特に映画ファンというわけではなかったようだ。

僕は、ただ映画が好きで、裏話や、製作秘話なんかを聞けるといいな、ぐらいに考えていた。映画「ニューシネマパラダイス」の主人公のように、まるで心は少年のそれであった。

果たしてその時の訪問では、最後には周りの人たちがつまらなそうに黙りこくってしまうほど、僕とY氏だけにしかわからない映画談義ははずんだ。プロットの立て方、カメラの角度、70ミリやシネラマ、効果音の苦労話などなど。おもしろかった。専門的な用語も、石原裕次郎や加山雄三のエピソードも、ある日本の有名女優の引退秘話も、どれも映画ファンにはこたえられないお話だった。

一方、 Y氏の製作した映画のことは、ご自分からは語ろうとはしなかった。「かえって映画界を引退した後の方が、趣味として、仕事抜きで、映画に接していられるんだよ」と、嬉しそうに話していた。

何十年も前の宣伝用チラシや特大ポスターのコレクション、ミュージカル映画のフィルム、シナリオ、かなりの読書をしたと思われる蔵書の数々。結果としてコレクションになったそれらの品々は膨大である。撮影に必要だからと、映画関係の人が借りに来る品物まであったらしい。

訪問の後半では1930年代のミュージカル映画のフィルム(MGMだったと思う、もしかしたら違うかもしれない)を見せていただいた。フィルムは、ダビングした今の市販のビデオテープと違い、字幕スーパーが入っていない。本場のフィルムの雰囲気とはこういうものかと思った。

それから、僕は一人暮らしのY氏を、渋谷・公園通りの高層マンションに時々訪ねるようになった。 Y氏は若い僕にも気さくに接してくださった。

彼は古き良き時代のお坊ちゃまであり、昭和30年代の昔からシトロエンやメルセデスを乗り回していた慶応ボーイであった。父親が日本郵船勤務だった関係でオーストラリア、東南アジアなどで少年時代を過ごしたそうだ。従って、英語に堪能で、字幕スーパーなどなくとも、アメリカ映画の内容は理解できるようだった。

「キミも外資系の会社に勤めているんだから、まあまあ英語は理解できるだろう?」と言われた時にはマイッタ。映画の中の英語は今だって完璧にはわからないのに。


Y氏はある事情から、ずっと独身を通していた。子供もいない。理由については、本人は一度も語らなかったが、姪の女性から何とはなしに聞いてはいたので、僕は黙って接していた。とにかく、ある事情から恋人は持っても家庭は持たぬことに決めたのだそうだ。

Y氏の方も僕の一本気なところと、少々無鉄砲で礼儀知らずな若さをたいそう気に入って下さったようだった。渋谷のマンションでステーキを自ら焼いてくださったり、お酒を飲ませて頂いた。酒に失礼だから、グラスの酒は残さず飲むようにと、酒のマナーも少し教わった。ここには決して書けない芸能界の裏話も聞かせていただいたし、学生時代のエピソードも伺った。

僕がジャズが大好きだとわかると、神宮前にあるジャズを聞かせるバーに僕を連れて行き、「さあ、ママに名刺を渡して挨拶したまえ」と言う。兄弟もおらず、父親知らずで育った僕には、まるでY氏は男としての、僕の教育係を任じているようでもあった。そのバーではコルトレーンチャーリー・パーカーのアドリブの話をしたものだ。

伊豆の別荘(温泉付きのマンションの一室)へお供した時は格別楽しかった。僕の役目はY氏にマッサージをすることだけ。あとは酒を飲んでうまいものを食べ、温泉につかって過ごした。「僕の歴代の彼女は皆、マッサージがうまくなったもんだよ」と、Y氏は言う。伊豆のおいしい小料理屋にも連れて行っていただいた。

こんな風に、映画とジャズを肴に数ヶ月を過ごした。家庭を持たぬ男と、父親を知らぬ若者が、まるで父と息子のように。

その後、特に理由もなく疎遠な時期があり、そのうち僕は結婚し、そしてクアラルンプールに駐在となった。 Y氏の訃報をきき、次に一時帰国した時には、ご遺族の方にお許しを得て、お墓参りをさせていただいた。

伊豆の別荘でY氏が僕に言った言葉がある。
僕がふと、「仕事は全然面白くないし、女の子にはふられるし。最近いいことないなぁ。特に好きな女の子も、今はいないしねぇ。どうやったら彼女ができるのかなぁ。はぁ・・・・」とボソボソ言うと、 Y氏はこうつぶやいた。

「当時つきあっていた女性と、夜中に電話で話していてね。僕は東京、彼女は京都の撮影所。お互い無性に会いたくなって、翌朝には僕は羽田から大阪行きの飛行機に乗っていたよ。でもね、キミ、それが“恋”というもんじゃないかねえ。とにかく会いたくなるっていうか。人を好きになるのは理屈じゃないもの」

僕は、今、結婚して子供もいる。かけがえのない家族だ。一度ご紹介したかった。 Y氏は、映画もジャズも、そして人生も、楽しいものだよ、と改めて教えてくれた。今も僕の思い出に残る、大切な人である――。

 ――僕は、支度を終え、妻と共にディナー・パーティーの会場になっているホテルに車を走らせた。そういえば、最近、大作のハリウッド映画しか観ていないなぁ、と思いながら。ジャラン・サルタン・イスマイル通りはまだ明るく、西日も強く感じられた。
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by y_natsume1 | 2004-12-23 17:55 | マレーシア駐在記

蛍 ~マレーシアの隠れ家的ホタルの名所~


クアラセランゴールは首都クアラルンプールから北西へ車で約一時間半ほどのところにあるマレー半島西岸の田舎町である。その近くのセランゴール川では、夜になると無数の蛍を見ることができる。まるで淡い自然光でライトアップしたクリスマス・ツリーが川沿いに何百本もある感じだ。 僕達もクアラルンプール駐在中に何度か見に行った。日本の人たちには何年も前にフジテレビ系の「なるほど!ザ・ワールド」で紹介されたのが最初のようだ(取材は1994年5月ごろ)。

本当はそっとしておくべき自然なのだろうけど、マレーシアでは既に有名になり過ぎ、各種ツアーまで組まれている。将来はダム建設予定もあるそうだし、そのうち蛍の数そのものが少なくなるのではないかと危惧している。今は、どんなふうになっているだろうか。

もうすぐ、クリスマス・・・・ですね。
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by y_natsume1 | 2004-11-19 14:29 | マレーシア駐在記

緊急事態


(注1)マレーシア駐在時の文章:

何年か前に、東京の日本人上司が僕にこう言ったことがある。「緊急、緊急といったって、世の中に人の生き死に以外に、本当に緊急なんてありはしないよ(末尾の注2)。仕事でどんなに急いでいても、所詮は人間のやっていることなんだから何とかなるもんだ。だけど、まあ、俺の仕事だけは、はやくやってくれよな。」



 マレーシア駐在中に「緊急事態」が僕に起こったことがある。

1997年10月6日の深夜、マラッカへの出張から戻った僕は、東京にいるはずの叔母(僕の母の妹)から電話を受けた。

四国の実家にいる母がくも膜下出血で倒れ、手術をするという。万が一のこともあるので、お前もすぐに帰国をしてはどうか、というのである。

四国へ戻るのはやはり関空経由の方がよいし、入院先は脳外科のある徳島県の鳴門病院だったから、関空からは高速船が徳島港まで出ているはずだ。徳島港からはタクシーを飛ばせばよい。そこで翌日、関空への直行便がある全日空のチケットを手配し、仕事上の連絡などを済ませて、早々に深夜便で帰国した。

10月8日の朝に到着し、病院に直行したが既に手術の真っ最中だった。予定を2時間オーバーして都合7時間の大手術は夕方、無事成功した。

その後、担当医師の丁寧かつ明快な経過報告を受けた。手術中に撮影されたビデオを見せながらの説明で、素人にも分かりやすいインフォームド・コンセントである。日本の地方の医師の中にも、脳外科のような難しい分野で、説明責任をちゃんと果たそうという、こんなプロフェッショナルがいるのか、と感心した。

手術の翌日(10月9日)には母はお粥の食事を取れるようになり、10月10日には集中治療室から一般病棟に移った。そこで医師に相談してみたら、峠は越えたようなので、クアラルンプールに戻ることにした――。

―― 1997年10月15日の深夜のことは、今でもコマ送りのようにはっきりと覚えている。

その日の夜は、ある商社マンと日系メーカーS社の人とで、クアラルンプール市内の中華料理の屋台でかなり遅めの食事をとっていた。S社の新規プロジェクトの仕事では、我々の会社を使ってくれることにほぼ決まりかけていたのである。とても規模の大きいプロジェクトである。

食事が終わって別れ際に僕の携帯電話が鳴った。クアラルンプールの自宅から妻がかけてきたのが携帯電話の表示板で見て取れたから、敢えてその場では電話は取らなかった。しかしこんな時間帯に妻が携帯電話にまでかけてくるのは、よほどのことである。果たして予想は的中した。自分の車を運転しながら、チャイナタウンのそばを通ったあたりで妻が残したメッセージを聞いた。

日本時間では10月16日の午前0時半ごろ、母は亡くなったとのことだった。くも膜下出血の手術はうまくいったのに何のことはない。運命だったのか寿命だったのか、心筋梗塞で亡くなった。

再度帰国しなければならなくなった。翌日の10月16日、職場で華人の上司に相談したら、帰国するのが家族として当然なのだから、心配しないで行ってこいと言われた。

そうは言われたけど、実際の調整は大変だった。仕事上のスケジュールやアポイントメントは、お詫びとともにキャンセルし、あるいは代理の人間にミーティングに出てもらうよう依頼した。夜の宴席も含めて2週間先の予定までびっしり埋まっていたから、こういった電話だけでかなり時間がかかった。

関空行きのフライトは、16日の夜ならばクアラルンプールからの直行便はないが、シンガポール経由ならあるということで、全日空のそれを予約した。社内の電子メールで関係者に一時帰国を知らせ、同時に電子メールの不在用のメッセージをセットアップした。全てが急いで詰めなければならないことばかりの一日だった。仕事上は緊急を要するものや、作業進行中の案件もかなりあったが、周りの人達の協力で、なんとかなった。

その日の午後には、華人系マレーシア人の同僚、上司達が何人も香典としてお金を集めてメッセージ・カードと共に持ってきてくれた。少し印象的だったのが、ある華人女性の上司の一人が、普段は僕に厳しくキツイことを言っていたくせに、この時だけは涙をうかべながら香典を手渡してくれたことだ。とにかく慌しくてキャッシュの持ち合わせが少なかったから、余計ありがたかった。この時ほど華人の私的なネットワークがすごいものだと実感したことはない。

一度目と同じルートで帰国してからは、何がどうなったのか、あまりはっきりとは思い出せない。喪主としてやるべきことや必要最低限の事務的なことを淡々と、できるだけの範囲でやっただけだ。葬式を出し、初七日を終えるまで実家に滞在した。確かに死に目には会えなかったが、一度目に帰国した時に母を見舞い、僕が何度かお粥を食べさせてあげ、少しばかり看病まがいのことができたことで、僕自身はある程度気持ちに整理をつけることができていたのかもしれない。

一度目の帰国の時、母は病床で僕にこう言っていた。

――「遠くにおるけん、お前が帰って来れるとは思わんかった。日本人たった一人で忙しいんじゃろに。それでもよう帰ってきてくれたなあ。息子が帰ってきたら、やっぱり嬉しいもんじゃけんなあ。」 ――
 
つくづく思うが、「お葬式」とは亡くなった人が、残された人にできる最後のプレゼントのようなものかもしれない。再会や同窓会に似たような機会を与えてくれるからである。

四国なんてめったに帰らなかったし、他人のプライバシーに首を突っ込み過ぎるこの田舎の土地は今でもあまり好きではないけれど、中学卒業以来会っていなかった旧友にも再会できたし、小さい頃にお世話になった旧友の母親たちにも会えた。それらオバチャンたちからは、僕の妻を見かけて、「おまはん(あなた)は、ほんまにきれいな都会のおなご(女性)と結婚できて、よかったのう」というような意味のことも言われた。こちらはそんな会話に対応できるほどの精神的な余裕を持っていなかったが、妻がもしそれを直に聞けば、お世辞でも手放しで喜んだに違いない。

食事を作るどころではないので近所の洋食屋へ入ったら、中のコックさんは父親から既に代替わりした僕の同級生だったり、僕が役所へ書類手続に行ったらそこの窓口の女性は中学の時のクラスメートだったりした。確かこの女性からは中学一年の時にラブレターのようなものをもらったことがある。付き合ったりはしなかったけれどね。

母の形見として自分が譲り受けたのは、男物のIWCの腕時計と、小型のハサミだった。IWCの自動巻き腕時計は、母が昔好きだった男性からプレゼントでもされたものなのかどうかは知らないが、今では僕が大切に使っている。
 
その後、四十九日はどうしても帰国できず、マレーシアの中国旧正月の休みの時期である1998年1月末から2月初めにかけて帰国した。その時に初めて墓参りをして、自分がS社の仕事を獲得したことを報告した。今考えると、なんでそのような、仕事のごとき一種つまらぬ報告をしたのかわからないが、僕自身そんな仕事上の成果でもなければ精神的にやっていられなかったのだろうと思う。

母が逝ってから半年ほどは、僕はマレーシアでの仕事がとても忙しく、悲しんでいる余裕も時間もなかった。葬式の時も涙が出なかったが、数ヶ月間は一滴も涙が出ず、黙々と多忙な仕事を片付けていったのである。僕はどちらかというと勤勉でも仕事好きでもなく、遊んでいられた方がよいのだけれど、この時ばかりは打ち込める仕事があるということは、ありがたかった。そして突然、妻の前で、何かの拍子で堰を切ったようにはじめて大声で泣きはらすことができたのは、実は葬式からやっと4、5ヶ月たったあとになってのことである――。

特に海外勤務の時は、母国にいる近親者の生き死にという緊急事態はあまり起こって欲しくないが、それが運命とあらば避けても通れないものだ。1997年という年は僕にとって、他にも親しい人が何人か逝ってしまった年である。3月には僕のクアラルンプールの職場の同僚(華人)が事故で亡くなり、葬儀に参列した。日本では、後で知らされたが友人の一人が病気で亡くなっていた。

(当時は)おいおい、俺達はまだ三十歳代に入ったばかりじゃないか、と言いながら、自分たちはこれからもしっかり生きていかなければ、と思った。

母が亡くなってから1年1ヶ月後に、その母の生まれ変わりのように僕達夫婦に娘が授かった。腹の痛まない男親としては、文字通り天からの「さずかりもの」と感じた。娘は皆に祝福されて生まれてきた。家族、親類だけでなく、僕のマレーシア人の同僚や友人、仕事上の関係者(お客様)、妻の友人など、多くの人に祝福されて生まれてきた。お祝いの品々も数多くいただいた。そして、娘の生まれたばかりの当時の顔つきは、今とは少し違って、なぜか僕の母親にそっくりに見えた。生まれてから2日後に撮った写真を見ても、今もそう思う。特に目の辺りと唇の形なんか、僕自身多少の驚きをもって、あれ、と思ったものである。


新しい世代は確実に、古い世代の何かを受継ぎつつ、育っている。


(注2)
もちろん、世の中には僕たちのような仕事内容とは違って、人命にもかかわる緊急を要する仕事がいくつもある。医療や消防、警察関係などである。彼らは社会一般からもっともっとリスペクトされるべきだと思う。
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by y_natsume1 | 2004-11-19 14:28 | マレーシア駐在記

ゴムのように伸びる時間(マレーシア駐在を終えた時)


(注)マレーシア駐在が終わる時に書いた文章:

マレーシアに住むまで、マレーシアについて誤解していたり、恥ずかしながら無知だったりしたことがかなりある。

作家サマセット・モームがペナンやシンガポール(ラッフルズ・ホテル)に滞在していたこと。

19世紀からマレー半島を植民地として支配したイギリスは、ゴムのプランテーションやスズ採掘のために、大量のインド人、華人の労働力を導入した為、これら本格的大量移民は19世紀以後のことであること。

それゆえ、多民族国家となっていること。

スズ採掘では、マラヤのスズは山スズでなく河スズが主であり、アヘンとセットでマラヤ内陸部の開発に利用されたこと、など。

ゴムのプランテーションもそうである。当り前のように思っていたゴムの木は、実はマレーシアには以前は存在しなかった。19世紀後半(1877年)にイギリス人ヘンリー・リドレーによって、ブラジル・ゴムの木がロンドンの植物園からシンガポールのボタニック・ガーデンズという植物園に持ち込まれたそうである。そこで品種改良、栽培実験などが繰返され、やがてマレー半島の主要産業であるゴムのプランテーション農園となっていく。20世紀初頭には車両用タイヤ等の原料として需要が増加し、発展した。マレー半島の殆どの主な道路や鉄道は、これらプランテーションやスズ採掘の発展とともに整備されたようだ。タイのバンコクとシンガポールを結ぶ現マレー鉄道も、以前はそれらの輸送手段であったときく。

日本人駐在員にとって、一年中常夏のマレーシアでは、時間はプランテーションのゴムのように、伸び縮みする存在なのかもしれない。僕にとっては約3年間のクアラルンプール駐在であったけれど、四季のない生活からか、本人の体内時計では半年から一年程度にしか感じられていない。帰国して一挙に白髪が増えれば、マレーシア=龍宮城として、それも一興だろうが、白髪はまだ極端には増えていない。

ハードな仕事も、近くのモスクから流れてきたお祈りの放送も、中華料理の屋台街も、そして炎天下でのゴルフも、今はすべてが懐かしい。

特に東南アジアの土地そのものが持つ、独特の「匂い」のようなものをよく思い出す。

今度、マレーシアにやってくる時は、おそらく仕事ではなく観光だろうから(遊びの方がいいに決まっている)、また違った意味で楽しみたい国だ。

その時は金子光晴の「マレー蘭印紀行」でも小脇に抱えて、アンカー・ビールでも飲みながら、ゆったりと流れる時間を味わいたいと思う。
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by y_natsume1 | 2004-11-13 14:42 | マレーシア駐在記

マレーシアの大阪文化 (勉強する?)

(注)マレーシア駐在時の文章:

マレーシアには大阪あるいは関西圏を本拠とする企業の子会社が多い。それゆえか、日本人駐在員も関西圏の出身者が多いように見える。実際に統計をとって言っているわけではないし、関西人の人数自体は絶対的に多くないとしても、関西人がどうしても目立つ為、印象的にはそんな感じが強い。

だから、マレーシアに赴任してくると、僕のように東京の仕事のやり方や文化しかわからなくなっている者には、「大阪学」とでもいうようなものを理解しなければならなくなる。

中でも印象的なのが、報酬料金の見積や支払についてである。関西出身の人達は、時々値引きや安くすることを 「勉強する」 と言う。

おそらく関西圏を中心に流れている某引越会社の有名なテレビ・コマーシャルを見ているからであろう。このCMのインパクト自体は強烈で、本当によくできた広告だと思う。ただ、このコマーシャルのお陰で、ことあるごとに 「勉強」 という言葉が巷で飛び交うのである。

一度、大阪系のメーカーから、あるコンサルティング案件に関してマレーシアの取扱いを、日本の制度との違いを中心に尋ねられたことがある。最初は一時間のミーティングで済んでいたのが、その後同じ内容について電話やファックスで何回も質問がくる。

相手はその分野の専門家とまではいかないが、一応は担当者なのに、何度も同じことを尋ねてくる。最初のミーティングでわかったと言ったじゃないか、と思ったが仕方がない。おまけに日本の親会社から同じ内容に関する質問がこれまた何回もあり(この子会社と親会社との連絡はどうなっているんだろうといぶかった)、いちいち文書での回答をするのにかなりの時間を費やした。

本来は、どんな相談内容でも事前に見積りし、お互いに合意してからしか作業に入らないのだが、この会社については急ぎの事情や他のしがらみもあって、こちら側もとにかく進めるしかなかったのである。

その後、報酬金額の話になった時、相手は払ってもよいがある程度「勉強してくださいよ」とぶっきらぼうに言った。「タダならもっといいんだけど」とまで言った。

僕は唖然とした。

礼儀作法も含めて、勉強するのはテメエの方じゃないのか。

言い換えれば、素人が勉強して調べる時間(長時間)の代わりに、我々専門家から「時間」(短時間)を買って、より早くより正確な検討結果を知りたかったのではないのか。また、値引きする時は、お金をいただく側から「勉強させて頂きます」と言うならまだ話はわかる。それを支払う側から「勉強しろ」とは何なんだろうと思った。いくら「お客様」でも程度というものがある。

お前が勉強しろ、だ。

そもそも無形であっても、サービスやサービス業とは本来有償な役務提供行為のはずであるが、日本企業にはいまだに無形の情報や時間にも対価を支払うという概念が育っていないのだろう。「サービス」は決して「ディスカウント」と同義ではない。

後日、この親会社を日本で担当している同僚に日本で会って聞いてみたら、あそこの会社は何でもタダでやってくれっていう社風で我々も困っているんですよ、と言っていた。

それじゃあ、大阪人は「タダ」や「大幅割引」なら本当に何でもよいのか。

「勉強しろ」というから、僕も仕方がないので謙虚に「大阪学」と「続大阪学」という本(大谷晃一著、新潮文庫)を買ってきて 「勉強」 した。

そこに書かれてあったのは、確かにそのような安い、値引きされたものを喜ぶ文化は大阪にはあるらしい、ということだ。但し、一方では、経営の神様と言われた松下幸之助氏が、「適正を欠く価格は、高すぎても低すぎても罪悪である」と発言したことも書かれていた。

何日かたって、大阪出身の友人に飲みながら事の経緯を話してみた。彼が言うには僕の思うところも、まあまあ、もっともな部分があるということだった。

つまり、・・・・確かに「安いもの」、「値引きされたもの」を取り上げる文化的な土壌は関西にはある。けれど、大事なことは「シャレ」が通じないといけないのに、時と場合を考えずに安易に「勉強しろ」という言葉を使って、返って肝心の専門家の僕を怒らせたのでは、その言葉の意味がない、あれは一種の「シャレ」言葉なんだから・・・、ということだそうだ。

もちろん僕も、全ての関西系企業が毎回、「タダ」や「値引き」ばかりをことさら主張するとは思わない。どんな企業でもコスト削減が厳しい命題だから、大阪人だけとは限らず、東京の企業だって似たようなところがあると思う。ただ、どうも商慣習上、大阪文化は東京文化と違う部分があるような気がするのも確かなのだ。

これは僕の周りにいる、関西以外の出身の複数のビジネスマンもよく口にしていることでもある。「値下げ」は必要なこともあろうが、「やり過ぎ」、「やらせ過ぎ」はあまりいい結果を生まない。

「タダより怖いものはない」

という格言もある。

「タダ」とか「半額」でやってもいいけど、質は保証しないからね、という仕事は、こう見えても職人気質の僕は、やりたくない。

お前だって 「勉強しろ」、だ。
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by y_natsume1 | 2004-11-13 14:38 | マレーシア駐在記

フェスタ・サン・ペドロ  於・古都マラッカ


(注)マレーシア駐在時の文章:

マレーシア駐在中、マラッカ州へは仕事、プライベートも含めて何度も行ったことがある。クアラルンプールから南北ハイウェイを使って車で南へ向かい、約2時間といった距離である。

ある週末に日帰り観光に行ったことがある。まず、意外なほど小さな街並みに、少々ガッカリした、というのが僕の正直な第一印象であった。これが数世紀前の東南アジア貿易において重要な位置を占めたマラッカなのか、というほど、割合あっけない感じなのである。サンチャゴ砦跡から眺めることができるマラッカ海峡は、いろいろな歴史小説に登場してくるらしいけれど、僕にはなんの変哲もない普通の海にしか思えなかった。海峡だから、とりたてて透明感のあるきれいな海でもない。どうも、僕は目の前のマラッカ海峡には、ロマンを感じられなかったようだ。

ただ、セント・ポール教会やクライスト・チャーチ、サンチャゴ砦跡など、見るべき観光ポイントはあり、さすがに歴史を感じさせるものだった。

砦跡や教会と同様、けっこう満足したのはババ・ニョニャ・ヘリテージの見学である。ババ・ニョニャとは、何百年か前に、マラッカ海峡に移り住んだ中国系男性とマレー人女性との混血を言うそうだ。当時、移民してきた華人は圧倒的に男性ばかりであり、マレー人女性と結婚して家庭を持ったが、その華人男性たちはマレー社会に溶け込んだ生活を送ったそうだ。ババはその華人系男性、ニョニャは女性の別称らしい(注)。そのババ・ニョニャ末裔の私邸が一般公開されていて、当時の生活用式を垣間見ることができる。家の造りは、玄関の間口に比べて奥行きがあり、まるで京都のお茶屋さんの建物のようでもあった。京都では、玄関の間口の長さに応じて税を徴収していた関係で、できるだけ支払う税が少なくなるよう、極端に奥深で細長い造りになっていたと聞く。マラッカで同じようなことが行われていたかどうかはわからないけれど、興味深い構造だ。

マラッカを中心とする地域ではニョニャ料理が有名である。この料理は中華料理のようでもあり、マレー料理の辛さもあり、まさに混合料理である。僕はあまり好きではない。一度、出てきた料理の中に、サンバル(エビを発酵させて作る調味料)で野菜や肉などを炒めるものがあり、これがどうも苦手だったからだ。

マラッカには昔ながらの二階建て長屋形式の建物が残っていて、アンティークの品々を扱うお店も何軒かある。昔は、これでも貿易港として、大都市だったのだろう。現在は特にアンティーク関係のお店が多いことで有名で、時計、家具などが所狭しと置いてあり、見る人が見れば、掘り出し物があるのかもしれない。僕は、3、40年も前のポップスのレコードを何枚も並べているアンティーク・ショップでかなりの時間を費やした。マラッカの一日観光はこんな感じだった。

ところで、マラッカのポルトガル人村(ポルトガル・スクウェア)では毎年6月末ごろになると、聖ペドロの祭(フェスタ・サン・ペドロ)が開催される。

これは漁民の守護神である聖ペドロをお祝いするカトリック教徒の祭である。祭の日は午後からポルトガル村にはいくつもの屋台や露店が立ち並ぶ。近くの中央広場ではステージが設けられ、コンテストや様々な催しが開かれるのが常だ。夕方には集会所でミサが開かれ、讃美歌が唄われる。

この時ばかりはポルトガル人村も観光名所として少しばかり活気を帯びる。日本人駐在員も意外とこの小さな祭のことは知らないのではなかろうか。大昔にタイムスリップしたような、とまではいかないが、ロザリオや十字架などを売っている店が見られるなど、ポルトガル文化に少し、触れることのできるイベントである。実際に見物してみると、その小規模さにあっけない感じを覚えるけれど、やはりマラッカは、昔のもの、古いものが似合ってしまう街なのだろう。

マレーシアにいた時、職場には、顔つきは中国系に近いがやはりポルトガル系と言われればそのような外見とも言える、フェルナンデスという名前の男がいた。彼はマラッカ出身のポルトガル系マレーシア人である。僕は彼とは割合仲がよく、彼からマラッカについて色々な話を聞いた。フェスタ・サン・ペドロのことも彼から教えられたものである。彼と話していると、彼の生まれや家系そのものがマラッカ海峡の歴史であるような気がしてくる。

過去、ポルトガル、オランダ、イギリス、そして日本によって支配され、様々な歴史を経た古都マラッカ。こじんまりとしてはいても、「時間の流れ」が持つパワフルさに圧倒される街とも言える。

(注)
ものの本によって、「ババ・ニョニャ」についての定義や説明内容が少しづつ違う場合があって、けっこう混乱してしまう。別にこの文章が正確な歴史解説書を意図しているわけでは毛頭ないので、どうでもいいといえばどうでもいいのだが、どうも有力な話としては、次のようなことになるらしい。

1460年頃、明の国から皇女ハン・リー・ポーがマラッカ王国の国王に嫁いできたそうである。この皇女にお付きでやってきた中国系の人達の子孫(中国系とマレー系の混血)を「ババ・ニョニャ」と呼ぶようだ。先にふれた通り、「ババ」は男性、「ニョニャ」は女性を指す。
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by y_natsume1 | 2004-11-13 14:24 | マレーシア駐在記

色について


(注)マレーシア駐在時の文章:

小学生の頃から趣味で油絵やグアッシュの水彩画を描いていた僕は(・・・なんて書くと、何と小生意気な子供だろうと思われるかもしれないけど、本当なのです・・・)、自分でも知らず知らずのうちに、色に関心を寄せていることがあるようだ。僕は色の話題にふれることが多い。

小さい頃に好きだった色で、今でも好きなのは、青だ。空の色(コバルト・ブルーやセルリアン・ブルー)、群青色(ウルトラ・マリン)などで、青色系統はとても好きである。一方、大人になるにつれて、対象によってその興味が沸く色も徐々に変わってきた。日常的には緑が好きだし、衣服ならば黒や茶系が良いし、建築物であれば、煉瓦色や真っ白が好きだ。写真ではモノトーンというか、白黒写真が好きである。

これは母親をはじめとする僕の幼年時代の家族の影響があると思う。僕には父親や兄弟がおらず、家族は母方の祖父母と母であった。家庭としてはごく普通の、少しばかり生活に苦しむような田舎のそれだった。しかし、僕にとって幸運だったのは、祖父の教養の深さもさることながら、母や祖母が色彩感覚に優れ、文化的素養もある人たちであったことだ。高等教育を受けていない四国の田舎のオバハンたちとしてはかなりのものだったと思う(注)。

僕が小学校低学年の頃、祖母からは和服の帯の色使いや、往年の名作映画「格子なき牢獄」でのモノトーンの良さをよく聞かされた(それでもこの映画はまだ観たことがないけれど)。また、母親は僕がスケッチをしていると、色の選び方に加えて遠近法の話をぶつぶつ言っていたような気がする。

特に、当時、幼い僕に祖母が話してくれた「もえぎ色」や「紅をさす」なんていう日本語は、その語感も色彩感覚も、本当に素晴らしいものと思う。

さて、クアラルンプールに赴任してきた時、まず思ったのは、この国が「原色」の国だと感じたことである。南北ハイウェイの車中から見えるプランテーションのパームツリーなどの緑。ヘイズ(煙霧)が出ていない時の真っ青な空。僕にとってのマレーシアは「原色」のイメージである。

黄色はマレーの王族の色である。だから、街で見かけるフェラーリやポルシェなどが黄色だった場合、その車は王族の子弟が乗っている場合がある。現在は王族の黄色を気にする庶民も少ないようで、一般市民でも違和感なく黄色の車に乗っている。もちろん、フェラーリならば、黄色よりもイタリアン・レッドであって欲しいと思うが。

華人は結婚式などのおめでたい時や旧正月を祝う時は決まって赤を使う。旧正月にお年玉としてあげる場合の「アンパオ」は赤い袋という意味であるし、お祝いの垂れ幕や結婚式の招待状なども常に赤地に金色の字で書いている。

イスラム教徒のおめでたい色は緑だから、マレー人にとってのラッキーカラーも、緑である。当然、マレーシアだけでなく他のイスラム教国でも、緑は縁起ものである。僕の住んでいたコンドミニアムのソファは、入居当初は緑色であった。けれど、家具が緑色というのはどうも変な感じがして、別の色に変えてもらったことがある。前の入居者はマレー系だったのだろうか。


色はさまざまな例えにも用いられる。日本語だと、「誰かの色に染まる」だとか、「人生はバラ色」などという慣用的な言い回しがある。僕の人生もお金と美人のお姉ちゃんたちにかこまれて、単純にバラ色だといいのだろうけれど、毎日が勝負であるから、そんなことをいちいち考える余裕はない。一方、マレーシアのイメージは「原色」だと言ったが、はたしてそれが緑(マレー系)なのか、赤(華人系)なのか、黄色(王族)なのか、僕には今もってわからない。もしかしたら特定の色はないのかもしれないし、原色でなく混ざり合った薄いパステル調なのかもしれない。

色といえば絵画だ。マレーシアにも質の良い絵を展示する画廊や美術館、展覧会などがもっとあればいいのにな、と思う。絵を通して良い「色」を味わいたいものだ。庶民レベルで良い美術館・絵画になかなか巡り合えないのは、どうしてだろうかね。イスラム教の偶像崇拝禁止だけが理由とも思えないんだけど。

(注)
四国の人々を蔑視するわけではないけれど、祖母や母は、自分らのことを決して四国の田舎者とは思っていないし、思いたくなかったであろう。そういう気概だったという感じがする。

大阪生まれの大阪育ち。それも大都会の出身であった。第二次大戦で仕方なく、祖父の実家のあった四国に疎開し、それ以後住みついただけのことなのだ。田舎の疎開生活での陰湿ないじめや、人間の尊厳を傷つけられるような出来事には、大変に悔しい思いがあったと聞く。だから、二人とも、島国根性の四国よりは、本当は大阪のような都会の方がカラっとしていていいと常々言っていた。

祖父はいつも寡黙であったが、その内心はどうであったろうか。昭和12、3年(1937、8年)頃の冬に、祖父と幼い母の、大阪の十合百貨店屋上で撮ったセピアカラーの写真が今でも残っている。

祖父は仕立ての良さそうな、なかなかに趣味の良い厚手のコートを着て二枚目に写っている。高価なコートだったろうと思う。この頃が彼の一番幸せな時期だったのかもしれない。

僕は祖父を想う時、常にその服飾についてのセンスの良さを感じずにはいられない。僕にはとても祖父ほどのセンスはないと思ってしまう。

祖父が亡くなってから、僕自身も挑んではみるのだが、サスペンダーやボウタイなどを身につけた祖父の写真を何枚か見るたびに、「ああ、また負けた」とニヤリとし、そしてその着こなしにはいつも感動し、尊敬するのであった。

単なる着こなしだけではなく、彼はスタイルそのものもお洒落な男だった。今でこそ外出前にシャワーを浴びることなど、日本では珍しくもないが、昭和30年代の昔から、彼は人に会う時は、まず真っ昼間から風呂に入り、ひげをそり、髪に櫛をいれて、身なりを整えてから出かけたものである。東京や大阪のような都会ではなく、四国の田舎での話である。

おっと、話が少々ズレたが、とにかく、祖父に負けず劣らず祖母や母も、教養と文化に理解のある都会っ子を自負していたのは確かだ。そして、鮮やかな色彩感覚が彼女たちにはあった。特にお金持ちというわけでもなく、いわゆる中産階級からもほど遠い生活であっても、その心はお洒落で粋な人たちであったと思う。
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by y_natsume1 | 2004-11-13 14:19 | マレーシア駐在記