2008年1月某日 夜。
鎌倉。
といっても山に近い、少々分かりにくい辺ぴな場所へ。
月が出ている。
幹線道路から脇に入った、暗い小道沿いに、
寂しそうにポツンと明かりが灯っている。
あそこだ。
地元湘南出身の友人に紹介された某居酒屋。
夏目さんならたぶん、あそこのディープな感じ、気に入ると思うよ、と。
その友人によると
愛想はあまりないらしいけれど、
不思議な雰囲気のオヤジさんが朝4時まで1人でやっているそうだ。
・・・・僕は暗闇の中、1軒だけ明かりの灯るその店に入る。
他にお客さんは1人だけ。
店内はボリューム小さ目でジャズがかかり、
ノスタルジックな、古い壁掛時計や置時計が数多くある。
古い時計がいくつもある割には、
時間の流れが緩やかというか、ゆるいというか、
時間を意識しないでいられる。
むしろ時計がいくつもあることによって、返って、
時間が止まっているようにさえ思える、 本当にフシギな空間なのだ。
お通しは塩で味をつけたタコの刺身。
酒は茅ヶ崎の地酒だという天青を燗で。
寒い夜にはやっぱり燗の日本酒がいい。
お燗は僕の目の前の小さな囲炉裏で炭火でつけてくれる。
うまい。
友人に聞いたところによると、
オヤジさんは昔、ジャズミュージシャン&カメラマンだったらしい。
メニューはオヤジさんの自筆(毛筆)で、今日の日付も入っている。
ということは、今日のオススメは何ですか?
なんて事を聞くのは野暮なので聞かないことにする。
メニューの上部にタイトルが書かれている。
”京の女に言ふ” (きょうのめにゅう)。
そういえば、京都のあの人は息災だろうか、と頭をよぎる。
カンパチの刺身。
都内で頂く刺身より断然イキが良くて、量が多くて、男には嬉しい。
うまい。
オヤジさんのオススメで、ドブ(どぶろくのドブ、だな)という
奈良のにごり酒を燗で。
すっごくうまい。
全然甘ったるくない。
ものスゴイ辛口&17℃という強さ。
酒飲みが好きになりやすい酒ではなかろうか。
店の中ではジャズピアノと女性ボーカルが
アンニュイに響いている。
音楽は流れていても、静かだ。
「お客さん、東京からわざわざ・・・・。 今夜はお泊り、ですか?」
「いえ、一応帰るつもりです。 泊まった方が安上がりなんでしょうけど・・・」
「そうですねぇ・・・。 タクシーで帰るよりは泊まった方がねぇ・・・・」
鴨葱の塩焼きを頼む。
この味は最高である。
これも量が多い上に、辛味のピリッときいたいい葱と、
歯ごたえのしっかりした鴨の肉に感動する。
「あとで吟醸酒を飲まないんでしたら、鴨葱に七味をかけて召し上がっても美味しいですよ」、と親切なアドバイスがオヤジさんから。
オヤジさんの愛想があまりないなんてこと、なかった。
実際、僕にとっては。 普通だよ。
1人でやってるから調理してる間は奥に引っ込んじゃって注文しづらいけど。
残っている鴨葱に京都の黒七味をかけて頂く。
うまい。
ドブの燗、もう1本。
酒が進む。
京、時計、月、ジャズ、酒、そして・・・・。
客はやがて僕1人になる。
オヤジさんは一息つくとジタンを吸う。
僕はゴロワーズを。
オヤジさんは僕のゴロワーズを見て、ニヤリ。
’70年代の某ミュージシャンたちやCM製作関係者のエピソードなどを伺う。
(実はこのお店にはユーミンも来たことがあるんだってさ。音楽関係者が多いんだろうな。)
僕がときどき世田谷の自宅から鎌倉方面に飲みに来るその微妙な心境を、
肝心な所を外さずに、このオヤジさんはちゃんと分かってくれたらしい。
分かりますよ、こっちに来る電車に乗ってる時間でさえ、
大事な旅の一部なんでしょ?
鎌倉は、お客さんにとっては桃源郷みたいなもん、かなぁ、と。
ここはフシギな空間だ。
ゆる~い。
時間が、 みごとに、 止まっている。
落ち着いた、静かな空間で過ごせていることの、なんと幸福なことか。
僕は確かにこの居酒屋にいるはずなのに、
まるで別の時代の天国か どこかの癒しの空間にでも
トリップして来てるようなヘンな、
けれど心地いい気持にさえなる。
ありがたいことだ。
止まった時間、 静かな空間。
ヘンリー・ミラーは、「北回帰線」の最後で書いている――
時間よりも空間が必要なのだ、と。
僕はそれを、しっかりと思い出す。
ドブを、グイっと頂く。 力強い酒は今の僕にはエナジーだ。
・・・・ お会計をして店を出るとき、オヤジさんが
おいしいよ、ミカンもってって、と。
いくつか、頂く。
そういや、もうすぐチャイニーズニューイヤーだな。
ミカンは華人の旧正月じゃ縁起物だ。
マンダリンオレンジ。
店を出て空を見上げたら、
底冷えのする夜空に無茶苦茶キレイな月が光っている。
僕はオパールを 思う。
月明かりは美しい。
心底冷える、寒い夜だ。
熱燗で温まった体でも、すぐに冷えていきそうなほど。
オヤジさんが店から出てくる。
僕が忘れた100円ライターを渡してくれる。
「あぁ、どうも、どうも。 すんません。 ありがとうございます」
店のすぐ前でオヤジさんと言葉を交わす。
「オヤジさん、あの月、なんだかすっごくアヤシイっすね」
(この鎌倉の山ん中の店も、相当アヤシイけどね、と思いながら。)
「そうですねぇ、今夜は何か起こりますかねぇ(笑)。
では、お気をつけて。 ぜひまたいらして下さい」
・・・・・ 僕は通りに出てタクシーを拾う。
後部座席に深く身を沈め、落ち着いた僕の目にまた、
月が、映る。
夜の空、 月が、 見えている。
酔いどれの僕はこれからどこへ向かう?
運転手さんに告げた行き先を、 変更しようか???
まさか
京(みやこ)か
はたまた月か?
*************
後で味わったミカン、とてもおいしかった。
こんなに甘くておいしいミカン、久しぶりだったな。
それにつけても、「京の女に言ふ」、とは気に入った。
僕は今もオパールを探し求めている。
ふらふらと酔っ払いながら。
あてもなく。
♪ テーマ曲
「Follow Me」 by 伊藤君子 ♪
♪ テーマ曲
「無人島」 by doa ♪
♪ テーマ曲
「野生の馬」 by シローとブレッド&バター♪
(ファースト・アルバム 「ムーンライト」(1972)より)